室町時代に書院造りの床の間を飾った立花は次第に大型化して、町人の数奇屋造りにはそぐわなくなりました。
そこで、立花を簡略化し、投げ入れ花の要素も取り入れ工夫をこらしたものが当時『いけはな』と呼ばれていた生花です。
この生花が今日ある数多くの流派を生み出しています。
日本最古の流派で、祖は天台宗の頂法寺の僧、池坊専慶と言われています。
専慶は連歌師としても名をなした人ですが、何よりも花を立てることを好み、新しい手法の花をいけたて花の名手と言われました。
彼の革新的な手法が後の立花の基礎となるのです。
ちなみに池坊とは、当時頂法寺内にあった一僧房の名称で、
その名は室町時代よりたて花の家として市中になりひびいていました。
その為今日でも、池坊の家元は代々、頂法寺に僧籍を置くものとされています。
池坊の花は立花に始まり、その後生花、投げ入れ、盛花と発展してきました
現在、○○遠州流と称するいくつもの流派があり、総称して遠州流と呼んでいます。
遠州流の特徴は、流麗な曲線にあり、指し口が一箇所と限らない点です。
また花留めの技術、「薬研配」や「おさ込み」が考案された事により初心者でもたやすく花を留める事ができるようになり、
幕末から明治にかけて一大ブームを巻き起こしました。
流祖は未生一甫で大阪にて看板をかかげました。
未生流の花の特徴は理論的に計算しつくされた隙のない緊張感のある美しさにあるといえます。
また、一甫のいけばなは易学から影響を受けた非常に精神性の高いものでした。
その後未生流の名を広めたのは二代目の広甫です。広甫の作風は綺麗でその評判は京都にも聞こえ、
乞われて嵯峨御所と呼ばれていた大覚寺の花務職につきました。
ここで未生御流の名を賜りそこから分派したうちの一つが現在の「嵯峨御流」です。
三代目以降は色々な分派ができ現在では未生流を名乗る派は数百にのぼると言われています。
現在の嵯峨御流は、三派の総称で、生花の未生御流、盛花と瓶花の嵯峨流、
儀式や宴会などで生けられる荘厳華を統一した名前です。
この流派は家元制度はなく流派の運営は華道総司所という機関によってなされ、
華道総裁は代々、大覚寺の門跡が受け継いでいます。
未生流の二代目広甫が大覚寺の花務職につき未生御流の名を賜った事から、未生流とは大変縁の深い流派です。
明治19年(1886)、初代家元吉村華芸(かうん)が若冠27歳で新しい文化が集う東京において創流しました。
二代目家元華丘(かきゅう)は、立華、生花に加え挿花(そうか)、瓶花(へいか)様式を創案し、
近代的な流派としてさらに基礎を固めました。
現在の三代目家元華泉(かせん)は、戦後の復興にともなって自由な試みが歓迎され、
前衛的な風潮がもてはやされる中、植物本来の生命を見つめ直し、作品化する方法論「植物の貌(かお)」を提唱、
「植物の貌」は今日の活動の根幹となっています。2006年、龍生派は創流120年を迎えました。
侘びを好む文人花として、花型にこだわることなく、野山にある自然の花材を使って自由 に表現するのが柴山流華道です。
本部は山口県にあり、柴山流茶華道大師範は末益恵風です。
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